「小河内昭和劇団」

昭和初期、田舎の村の楽しみと言えば、花見、花田植、神社の祭礼などの年中行事と二〜三年に一度、近郊の町に訪れる旅回
り一座の芝居興行や巡回映画でした。
村の若者は、いつしか旅回りの芝居に熱中し、「いつか自分もあのような役者を演じてみたい」と夢を抱くようになり、昭和三年、
村の青年団の若者数名が、素人田舎劇団を立ち上げたのが、「小河内昭和劇団」の始まりです。
当時は、娯楽というものがほとんどなく、村の劇団はたちまち村の話題となり、秋祭
りでの興行を始め、他の地域から声がかかれば、村に一台から二台あった「バタンコ」の荷台に芝居道具や役者・裏方を積んで、あちこちに興行していました。

当時のエピソードに、加計の方に興行に行った時、バタンコに乗った役者の一人が酒に酔って、道にころげ落ちたのに誰も気づかず、公演前に一人役者が足りないことで、大騒ぎになって探したという話があります。
戦後は、あだ討ちとか恨みを晴らすといった芝居は、GHQの占領政策でできなくなり、芝居の台本は全て検閲を受けなければ公演できなくなりました。
このため、そういった箇所の台詞は、全て黒の墨で抹消され、観客に人気のあるあだ討ち物の芝居を演ずることはできず、大変困りました。
今でも芝居の台本は、全て団員の手づくりですが、昔は、テレビもない時代でしたから、台本作りには随分苦労しました。当時の団長であった故原本座長は、時代小説や浪曲などから一節を取り出して創作したり、わざわざ広島市内まで遠出して、「広栄座」などで演じられていた芝居を見て帰って、一晩で台本を作ったこともあったと聞きます。
劇団の活動は、年々磨きがかかり、興行先では、連日大盛況。衣装や鬘などの道具も次第に整い、全てが順風満帆でした。
しかし、昭和四七年梅雨時、連日の大雨で、太田川の所々が氾濫した日、劇団倉庫が強い風に飛ばされ、小河内川に流されてしまい、長年にわたって整えてきた芝居道具一瞬にして無くなるという悲しい出来事がありました。加えて、団員も高齢化し、復活させようという気力も失い、ついに昭和三年から続いた劇団の活動は、中断したのでした。

復活は、団員の二世の手で!昭和五六年、初期の頃の団員の二世であった当時の佐々木団長が、若者達に声をかけ、再生資金を集め、旅回り一座の古い芝居道具を数点購入し、念願であった劇団を復活させました。
以降は、毎年の公演や老人ホームへの慰問、秋祭りでの奉納など、精力的に公演を行い、団員一同頑張っています。『当時の名声をもう一度高めよう』を合言葉に活動しています。

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小河内昭和劇団